幸せはお金では買えない 心しかあの世には持って行けない
平成17年8月1日
娘は三歳になり一日中おしゃまにしゃっべてはいるが、まだまだ甘えん坊である。息子は一歳四ヶ月になった。ハイハイで好きなところへ行けるようになり、恐がりですぐ泣くくせにどんどん一人で 行ってしまい目が離せなくなってきた。息子は生まれてすぐ病気をしたので、定期的に病院で検査をしている。この間はMRで脳の断面図を撮った。結果は脳が萎縮していた部分があり、実際に写真で見るとこんなに萎縮しているのかと愕然とした。しかし、それ以外は悪いところがなく、成長も順調とのことで安心した。どんなことがあってもこの子達をしっかり見守って愛していこうと強く思いなおした。人によっては、良い方向に考えられず、将来のことを不安に思っ たり、自分を責めてしまったりと悩んでしまう人がいると思う。ただこの闇を払うのは自分自身でしか払えないのである。どうしたら悩みから脱し満足して生活するか、どう幸せに生きていくか仏教では六つの心がけを示している。
1.思いやりの心
2.自分を甘やかさない心
3.他人の生き方も尊重する心
4.無理せず、怠けずの心
5.意欲を高く強く持つ心
6.仏様のように考える心
悩みがあるときだけ心がけるのではなく、常日頃からこの心がけを実践し生活していくことが大切である。そして幸せという財産を増やしていきたいものである。
祐 海 合 掌
目線
平成17年1月10日
長男の大雲は生後間もなく大病をしたが、その後は病院の先生もびっくりするくらい順調に成長し、9ヶ月になった。よく笑い、手ばたきもするようになり、病気したことを忘れてしまうくらい元気 である。
祐那は2才5ヶ月になり、よくやくおしゃべりするようになってきた。子供といると発見が多い。散歩にでかければ、道路と塀の隙間 に力強く、小さな花が咲いてるのを見つけて「匂うよ」と教えてくれる。電柱にしがみついて「うえ、うえ」と言うので上を見てみると、電線がたくさんのびていて、下から見上げるとこうなってるん だと、電柱は見慣れているのに初めて見るような新鮮な気持ちになる。この間は、日が暮れて外に出てみたら、きれいな三日月が出ていた。それを見た祐那は、「あっ!バナナだ!」と言ったので、思わず大笑いしてしまい、このちょっとした発見に幸せを感じる。
人はいつからか、月は月としか見なくなってしまうのだろう。確か自分も幼いときは、遊びの中でいろいろ発見していたと思うが、大人になると自分の目線で見えるものや自分の固定観念でしかもの を見なくなってしまった。
怒っている人を見ると、常に怒って怖い人と決めつけ、落ち込ん でる人を見ると暗い人と決めつけたがる。しかし人は一面だけではない、笑ったり、泣いたり、いろいろな面がある。人だけではないものや風景など思いこみで見ていたものがたくさんあるけれど、実は、まだまだ知らない部分がたくさんあるのだ。
ひとつのものの考えにこだわらずいろんな方向から人やものごとを見てみよう。ありふれた日常生活にこそ小さな発見があり、幸せが落ちているのだから。
祐 海 合 掌
愛
平成16年7月25日
三月十五日に長男が誕生した。名前は大雲(たいうん)といいます。陣痛が始まってから生まれるまで、なんと一時間という速さの出産だった。二人目だったから、子育ても気持ちに余裕があり、一人目とは又違ったうれしさと楽しさがあった。
しかし、生後九日目で髄膜炎という病にかかってしまい入院して しまった。敗血症という血液に細菌が入り全身に菌が回ってしまう合併症にもかかり、重篤だった。
人工呼吸と点滴だらけの小さな体を見て、私は涙が止まらなかっ た。昨日までは、よく母乳を飲みよく寝て順調だと思ってたのに、こんな辛い思いをさせてしまったと自分を責めても責めきれないくらいの悔しさと悲しさでいっぱいだった。
毎日泣いてばかりだったが、周りを見ると子供病院だったので、たくさんの子供たちとその親が病気と向き合っていて、辛いのは自分ばかりではないんだな、みんな頑張ってるんだと思い、勇気づけられ、励まされた。泣くのをやめて、お薬師様の真言「オン コロ コロセンダリマトウギ ソワカ」を唱えて、よくなるように祈ることにした。そして、家族の支えがあり、なんとか乗り越えることが 出来た。
大雲は本当に頑張って、入院二ヶ月半で退院できた。脳の炎症が激しく、傷が残ってしまったため、後遺症が残るかもしれないと医者から言われている。しかし、今のところは、大病したとは思えないほど元気に成長している。
不安や心配は尽きないが、どう後遺症が残ろうとも、私にとってはかわいく、愛おしい子供にはかわりはない。たくさんの愛を受けて大きく育ってほしいと思う。
今回の事で、人は一人では生きられない。たくさんの人に助けられ、支えられているのを実感した。そして、人は、身近な人の愛のある言葉によって、救われるし、がんばれると思った。
祐 海 合 掌
じぶん
平成16年1月1日
お陰様で娘は1才5ヶ月になり、私のお腹の中には8ヶ月目の子を授かっている。予定日は3月なのだが、もう生まれてきてもおかしくない状況になってしまい、今は、もう少しお腹にいて下さいともし早く生まれてしまっても無事でありますようにと、ただ祈るだけである。
妊娠していると、意味もなく落ち込んだりしてしまうことがある。気分の浮き沈みがあって自分でもコントロールするのに大変だなっ て思う。こんな時、自分を救えるものってなんだろうって考えた。
家族? お金? 宗教?
確かに家族は辛いときにそばにいて支え、見守ってくれ大きな力 になる。でもそこでその力を自分のものに出来るか出来ないかは自 分である。いつまでも家族に甘えていては何もならないから。お金はどうか。実際、お金は無いよりあった方がいいに決まって る。しかし、お金ばかりに執着してるとお金では買えない大切なものを忘れ、お金に振り回され、結局は自分を見失ってしまうよね。宗教が一番、あなたを救えるのは宗教しかないなんて書いたら、 あやしい宗教になっちゃうね。実際、手を合わせて心静かにして祈ると落ち着いたり、救われた気がするけど、宗教は、自分の心の運 転マニュアルというだけで、実際に運転するのは自分なんだ。
結局、自分を救えるのは自分しかいないんだよ。一人の力だけでは生きられないけど、周りの力を借りて、自分で一歩一歩進んでいくんだよね。
これをおシャカさまは自灯明・法灯明って説いたんだよ。
自とは自分のこと。法は教え・仏教のこと。仏教が先じゃなくて 自分が先に来ているよ。先ずは自分の足下を照らし、しっかりと歩み、それから仏の教えをよりどころにしなさいと説かれたんだ。辛いときは泣けばいい、失敗してもまた歩けばいい、昨日は死んだ時間、明日はまだ生まれてない時間、生きている時間のたった今 を大切にすればいいんだよね。
祐 海 合 掌
おばけ
平成15年7月21日
夏になると、背筋が凍る怪談話でも聞いて涼しくなろうとするせ いか、ラジオやテレビなどでお化けの登場が増えてくる。お寺に住んでいると、「怖くないの?」とか「お化けいるの?」「幽霊見たことある?」と聞いてくる友達がいる。もしかしたら、 ほとんどの人が思ってる疑問かもしれないね。確かにお墓は、亡くなったら入るところで、そのお墓がいっぱいあるお寺は、お化けが見えてもおかしくないと思うのだろう。しかし、亡くなったら住職が供養し引導を渡し、極楽浄土へ旅立っているわけだから、お墓があるからお寺は怖いというのはおかしな話である。お墓は、極楽浄土へいらっしゃる亡くなった仏様に出逢えるところで、むしろ、神聖で、安らかなところなんだよ。実は、ご先祖様が祟ったり、亡くなった人が幽霊となって悪さをするというのは、生きている人がつくり出すものなんだ。生きてい る人が、恨んだり、怒ったり、妬んだりする心によって、お化けが つくられるのである。今自分が見ている世界は、自分の心を通して見ている。真実だと思って見ている現実は、ただのスクリーンで、見えているものは全て心の映写機で写し出されている世界なのである。人のせいにしたり、社会のせいにしがちだけど、自分の心が 変わらなければ、何も変わらない。だから、私たちが、いつも笑っ ていれば、亡くなった仏様はいつも笑顔で見守ってくれている。お化けがいるかどうかは、自分の心に聞いてみてください。
祐 海 合 掌
先生
平成15年1月1日
私は今、昨年夏に娘を出産し、子育て奮闘中です。出産した病院の先生に「先に生まれた方が偉いのではないのですよ。赤ちゃんにはたくさんのことを教わる。赤ちゃんを先生だと思って育てなさい」と言われた事が心に残っている。ニュースで自分の子供を虐待してしまう親を聞く。今までは、ど うしてそうなってしまうのか分からなかったが、子育てをしてみて、 一人で子育てをしていたら大変だろうなと、虐待は絶対してはならないが、ノイローゼになってしまう気持ちも分かるような気がする。私は、娘を両親や檀家さんなど多くの人に育ててもらっていて、この環境に感謝している。これからどんどん成長し社会へ出て行くが、 娘には、競争社会のこの世の中で、人の評価が気になったり、良い 結果を出すことが全てになっては欲しくないと思う。自分の評価は 自分で決めるものだし、結果ばかり気にしていると、難しいことには挑戦せず、努力しなくなってしまう。結果が全てではなく、たとえ失敗したとしても、挑戦し努力していく過程が大切なのである。御詠歌の名取先生に頂いた絵手紙の言葉に『最初のいただきものこの命』と書いてあった。当たり前のように生きていた私だが 、命を授かりこの世に誕生してくる娘を目の当たりにしたとき、名取先生の言葉の本当の意味が分かった気がする。本当に赤ちゃんには多くの大切なことを気づかせてくれる、仏様なんだなぁ~。
祐 海 合 掌
幸せの星
平成14年8月1日
「幸せの星の下の生まれた」と母が私に子供の頃よく言っていた。母は0才の時から小学生頃まで小児喘息で発作がとても苦しく、また元気に外で遊べなくてよく寝ていたそうだ。そんな中でも「私は幸せの星の下に生まれたんだ。だから大丈夫。」と思っていたそうだ。今は「よっぽど自信家だったのかしら」と笑って言ってるけれど。人それぞれ環境が違うので、人と同じ条件での幸せなんてあり得ない。だから、世の中不平等なのかもしれない。しかし、どんな状況下でも、この世に命を授かったという点は全員平等なのである。そう、みんな幸せの星の下に生まれたのは同じである。
しかし普段の私たちは、『ガツガツ・イライラ・ムカムカ』と心が不平不満や怒りばかりで、大切なものを見失ってしまう。せっかく幸せの星の下に生まれたのだから、今ある自分に感謝し、他人を思いやり、普段の生活から手を合わせる心を持ちたいものだ。
祐 海 合 掌
君に出会えて良かった
平成14年1月1日
部屋の掃除をしていたら、懐かしい絵本が出てきた。表紙をめくってみたら、小学校六年の私と当時の担任の先生が写った写真 が貼ってあった。そうこの絵本は、六年の担任の先生が卒業するときに送ってくれた物だった。写真の下には『君に出会えて良かった』と 書いてあった。この言葉を見て、その当時私はどう思ったかは覚えていない。とても冷めてた小学生だったから、どうせみんなに同じ事書いてるのだろうとしか思わなかったかもしれない。しかし、十五年経った今見てみるとこの『君に出会えて良 かった』という言葉は私の心の中の何かがポッと暖かくなった。今まで二十七年間生きてきて、私なりにたくさんの出会いがあり、また悲しい別れもあった。その中で、何回『君に出会えて良かった』と思っただろうと思い返した。
私の出会いの中で楽しい事もたくさんあったけど、悲しい事や悩んだ事、苦しかった事もあった。もしかしたら、出会えて良か ったなんて思った事なんてほんの数回しかないかもしれいとも思ってしまう。しかし出会えて良かったと思うのも悪かったなって思うのも自分次第だと思った。色々な周りの人に出会って、色々な人に支えてもらって、私がいると思えば、全てが自分にとって素晴らしい出会いなのだろう。
仏教では、仏様は一人一人の心の中に住んでいると説いている。私の中にも仏様は本当にいるのか、また、どんな顔をしているのだろうと常々考えている。そう思うと、十五年前に先生から贈られた言葉に私の心がポッと暖かくなったのは、私の中にいる仏様が熱くなった瞬間のように思う。自分自身がここに存在していると思えた瞬間でもあった。
祐 海 合 掌
芽
平成13年8月1日
最近、「お~い、野菜がとれたぞ~」と本堂の裏にある畑から、毎朝住職の声が聞こえます。住職が全て土を耕し種まきから草取り水やりなどやってます。その甲斐あってこの猛暑にも負けず、豊作豊作!毎日たくさん新鮮な野菜が食べれて幸せ~。
私は食べる一方で何もやってないのですが、ふと思いました。畑と人の頭は似てるなと。畑は土を耕して柔らかくして栄養をやってよい土ができる。人の頭も耕して柔らかくしないと堅くなって痩せてしまうな~って。水をやって環境をよくしなければ土はぱさぱさになってしまい、いくら種をまいても実りませんものね。
頭という畑を耕して、新しいことを受け入れられる様に柔らかくし、仏心という芽を育てていきたいなと思いました。
祐 海 合 掌
人は『かたち』ばかりにとらわれている
平成13年1月1日
私はある人と話していた。その人は田舎に母親を一人残して街に住んでいる。母親が弱ってきたから、田舎へ帰って一緒に暮らした方が良いのかもしれないが、近所付き合いが大変だから田舎に戻るというのは勇気がいると話していた。
近所の人がうるさくて、付き合いが面倒だと思う人も多い。実際そうなんだから仕方ないかもしれない。でも、どうして、そういう付き合いをするようになったか、近所の人も自分も考えるべきだろう。元はと言えば、自分は一人ではいきられない。周りの人に支えられて生きている。その感謝の気持ちの現れから近所付き合いというものが始まったのだろう。元々の心の部分を忘れてしまって、形式ばかりにとらわれてしまう。
私は「目が一重だから二重にしちゃおうかな?最近動かなくてばくばく食べてたら太って来ちゃったよ。ね~お父さんはやせてるのと太めどっちが好き?」と聞いてみた。そしたら「コツと付き合ってるから関係ないよ」と言われてしまった。コツとは骨のことで、人は死んだらみんな骨しか残らない。生きてるときは、骨に肉が付いてる、ただそれだけ。要は外見がどうではなく中身、目には見えない心が大切なんだ。だそうです。
ふむ~なるほど…。『かたち』ばかりにとらわれて、翻弄し、惑わされる事が多い。『かたち』には出来ないものにもっと目を向けて目で見るのではなく、心で観なくてはいけなのねと反省しました。
祐 海 合 掌
本当の世界?!
平成12年7月20日
仏教では六道という六つの世界があると言われている。それは、あらゆる責め苦を受けるもっとも苦しい世界の『地獄』、飢えと渇きに苦しめられる世界の『餓鬼』、虫や鳥、魚も含めた動物の世界無知ゆえに苦しみが多くて楽しみが少ない『畜生』、怒りに満ちた闘いの世界の『阿修羅』、苦楽あい半ばする私たちの世界の『人』六つの世界でもっとも安楽を得られる世界の『天』である。
このいずれかの世界に生まれて、死んだら別の世界に生まれ変わる。生まれては死に、生まれては死に、私たちは永遠に生死を繰り返す。その様子がまるで車輪が果てしなく回り続けるようだというので、「輪廻」と呼ばれている。ぐるぐる回ってる六道の世界から飛び出して、永遠の安心を得る悟りへの道・仏の世界へ行こうというのが仏教が始まった起こりである。
地獄とか餓鬼とか実は、そう言う話は嫌いだった。だって、空想の話のようで本当にそのような世界があるの?って思っていたから、しかし、私たちが生きているこの世界は本当に人界だろうか?と思った瞬間、考えが変わった。
自分や周りの人の心、世間では残虐な事件があったり、戦争をしている国もある…ということを考えると、六道の世界はあると思った。ただ人間という着物を着ているだけで、この外見を取り払って中身・魂だけを見てみると、まさしくそこは、六道の世界が存在しているではないか!
八月十七日、徳星寺では毎年「施餓鬼会」を行っている。本来は悪道に落ちて飢餓に苦しんでいる霊を救うため、飲食物を施して供養する法会である。また現在では、餓鬼にとどまらず、先祖の供養や無縁の霊、戦争や事故で亡くなった方の霊を広く供養する法会になっている。今年からは、その供養に加え、今、中身の自分は六道のどの位置にいるか気づく機会にしたい。そして少しでも仏様の心に近づけるよう、悟りへの憧れをもって生活したいものだ。
祐 海 合 掌
きらきら輝く
平成12年1月1日
最近、週2~3回、私は小学3年から6年生の女の子にバスケットボールのコーチをしている。自分は中学から大学までバスケットをしていてバスケットが好きだし、子供も好きだから好きなものが二つ同 時に出来るなんてと軽い気持ちで始めてみた。でも、やってみたら難しいことが分かった。何が難しいかと言うと、言葉で説明してもなか なか理解してもらえないところ。何事、ものを教えるというのは、奥 が深くて大変なんだと思った。でも、子どもたちのあのきらきらとした目で見つめられると、がんばろうって気になる。
ここで私が気を遣ってることがある。スポーツって上手い下手とい う能力の差が明確に出てしまうとても厳しいもの。でも、上手いからと言ってその子だけをのばすのではなく、下手だからと言って切り捨 ててしまうような教え方はしたくない。厳しい中でも自分の役割というものをそれぞれが見つけだして欲しいと思っている。自分の得意とするものを見つけて生かして欲しい。プレーだけではなく、チームの 仲間を大切に出来るように、お互いをけ落とすのではなく、認め合っ て、助け合いながら、上手くなっていって欲しいと思う。それぞれの きらきら輝くものをどんどんのばしていって欲しいと思う。
私は子供たちのきらきら輝く目を見ながら、いつもそう思うのであ る。いつになっても、まぶしさって失ってはいけないのだと。
祐 海 合 掌
人生に無駄はない。
平成11年7月20日
人生に無駄はない。
人生に失敗はない。
人生に負けはない。
人生の無駄・失敗・負けって一体誰が決めるのだろう。また、どうやって決めることなのだろう。それは、他人が自分と他人を比べたり自分が自分と他人を比較して決めるのである。
人間の物差しは損か得か、幸か不幸か、勝ちか負けかなど全て他者と比較している。この物差しは全てだと思いこみ、人は悩む。しかし、人の物差しは、ある一部分しか見ていないし、比較する基準も他者との比較から生まれた価値観にすぎないのだから、当てにはならないよ。仏の物差しで見てみれば、その人が、人生を無駄・失敗・負けって思いこんだものは、本当はその人にとって、素敵な経験であり、大切な人生の一ページなのだ!
全ては生きていることに価値があり、意味がある。でも、その価値や意味は人につけてもらうのではなく、誰かと比較するものでもない。全てを見ている自分の中にいる仏様が自分自身の人生に価値や意味をプレゼントするものだ。
祐 海 合 掌
まわりの力
平成11年1月1日
昨年十月に前住職が亡くなった。その一ヶ月後、豊山派管長猊下をお迎えして大きなお葬式が行われた。この一ヶ月間は、たくさんの人が動いてくれた。自坊の者だけで出来たのではない。たくさんの人の力によって出来たものだ。私は何をしたのだろうか?何もしていないような気がする。私だけ時が止まっていて、周りの人の働きが感じ取れる感覚だった。その時の私は、「まわりの力」というものに気づくことが出来た。一つのものを動かすのには一人では出来ない。多くの人の助けによって出来るのだと思った。
このことはすべてのことに言えるのではないだろうか?種だけがあっても花は咲かない。土や水、太陽などまわりの縁によって花を咲かすことが出来るのだ。決して一人で出来るものなどない。だから、人は謙虚にならなければならないのだ。自信過剰になると、自分は偉いとか、自分は出来る、何でも一人でやってきたなどと思うだろう。また反対に自信喪失になると、自分はダメだ、自分は何もできないと思うだろう。これらの考えは、自分が自分がと言って自分しか見えなくなっている。自分しか見えなくなっていると「苦」しか生まれないものだ。
インターネット上で自殺のホームページが多いという。そして、自殺願望者に毒薬を売った事件があった。読売新聞に自殺も遊び感覚化が進んでるのでは、と言う記事があった。彼らは、生きているのだか死んでいるのだか実感が湧かないのだろうか?いやいや、ただ彼らは自分しか見えなくなっているのだろう。彼らだけではない、日本人のほとんどがそうではないだろうか?我が前に出て自分がかわいくって仕方ない。でも、もっと大きな広い目で見てみると、私たちはあらゆるまわりの縁によって生かされてることに気づくはずだ。
祐 海 合 掌
「幸せ」について。
平成10年7月22日
今、幸せですか?
普通「幸せ」というと、「結婚するから幸せ」だとか、「お金持ちだから幸せ」とかそういうものを考えがちだけれど、このような世間的な幸せは、一夜にして崩れることもあるでしょ?そうなると、いつ壊れるか、不安で仕方ないよね。そんな幸せって、本当の幸せなのかな?本当の幸せとは、苦しくたって、悩みがあっても、幸せと感じられるものだ。どんなに周りが変わっても、「幸せ」は変わらない。これが、仏教で求める幸せなのだと思う。
一見難しくて、私には出来ないって思う人がいるかもしれない。でも難しいことはないし、誰にでも出来ることなのだ。ただ「生きている」ということに気づけば良いだけのこと。何気なく、起きて、食べて、働いて、寝るという過ごし方の人が、多いと思う。でも、生きているって実感すると、一つの行動にしても、感謝する気持ちが湧いてくるものだ。悩んで辛くても、生きているからそう感じることが出来るのだと思え、楽しくてシアワセの時は、思いっきり感謝する。そうすることによって、ありのままの、今の自分に満足することが出来、「幸せ」が後から付いてくるものなのだ。
では、誰に感謝すれば良いの?それは、もちろん命を授けてくだっさた仏様やご先祖様に。そして、お寺に行ったり、お墓参りをしたり、家に仏壇がある人はそこで拝んだりすれば良いのだが、一番身近にいて、いつでも何処でも、感謝の気持ちを伝えることが出来る、自分の心の中にいる仏様に感謝すれば良いのだ。
こんな気持ちになれれば、不況だの、世紀末だの騒いでる世間なんてちっとも怖くなんか無いですよ。
祐 海 合 掌